神戸北野ヒストリー
北野町・山本通 異人館街の歴史
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神戸の北野が歴史上に現れたのは、今からさかのぼること、治承四年(1180年)の福原遷都に際し、平清盛が都の鬼門鎮護のため、京都の北野天満宮をこの地に勧請したことによる。
時代が下って、明治の開港まで北野から三宮の地域は、神戸村、北野村という農村であり、砂浜と田畑と山野がひろがっていた。なかでも北野村は居留地にもっとも近い山麓の恵まれた位置にあり、開港当時の家数60戸、人数230人であった。一方の山本通は明治になって山手方面の新道開設のうえで生まれた地名で、同7年から現在の町名が付けられた。その位置は北野村、中宮村の一部からなっていた。
北野町に異人館街が誕生した理由は、開港後の来日外国人の増加による居留地の用地不足にあった。諸外国との条約上、居留地を広げることは治外法権区域の拡大を意味するため、明治政府は、東は生田川、西は宇治川の範囲を限って日本人との雑居を認め、居留地から山手に延びる南北道の整備を行った。このため居留地や港が南に一望できる環境のよい山手の高台に外国人住宅である異人館が集まり、のちには居留地の仕事場に山手から通勤するライフスタイルも定着した。明治時代から昭和初期にかけて二百余棟建てられた。異人館の建築については、形はほぼ「コロニアルスタイル」と呼ばれる様式に集中しており、神戸の異人館では、ベランダ、下見板張りペンキ塗りの外壁、ベイウィンドウ(張り出し窓)、よろい戸、赤レンガ化粧積み煙突などが特徴となっている。
しかし昭和1939年(昭和14年)の第二次世界大戦の勃発、同16年の太平洋戦争への突入は、永く神戸に住んでいた在留外国人の国外退去や母国への帰国を招き、北野界隈をはじめ神戸の山手の外国人と共生してきた環境は大きく損なわれることとなった。しかもこの戦争による空襲の被害は、多くの異人館や歴史的なストックを失わしめることとなった。
第二次世界大戦の敗戦は、神戸の市街地に壊滅的な被害をもたらした。旧居留地をはじめ山手にも空襲の被害が及び、山手通の道路を挟んで南側は一部を除いて殆ど焼失区域に含まれていた。そのようななかで、山本通から北側の山際に至る細長い北野町1丁目から4丁目に至るベルト状の一帯が、かろうじて戦災を免れた。
戦後も1960(昭和35)年頃までは二百棟近い異人館が点在していたが、60~70年代の高度成長期以降、次第にビルやマンションへの建て替えが進み、異人館街の破壊が進んだ。
75年頃より女性向け雑誌が相次いで神戸異人館の特集を組み、さらに77年放送のNHK連続テレビ小説『風見鶏の館』で取り上げられたことにより人気が沸騰し、異人館の存在は広く知られるようになり、閑静な有宅地であった北野町界隈は一躍観光地といて有名になった。
異人館の保存・活用が本格化したのは70年代以降のことである。住民や商業者が協力し、界隈の道に愛称を公募し、北野坂・ハンター坂・不動坂・北野通りなどの名が付けられた。これがきっかけで街路整備から異人館や景観の保全活動へと進んでいき、市が風見鶏の館や萌黄(もえぎ)の館を借り上げて公開したことをはじめ、80年(昭和55年)には文化財保護法による伝統的建造物群保存地区の指定を受け、保存・修理に取り組むようになった。さらには遊歩道の整備、シティループの運行など、建物だけでなく、街全体の観光地化が進んでいった。
95年(平成7年)1月17日に発生した阪神・淡路大震災により異人館も大きな被害を受けたが、残された30棟あまりの建物は全国から駆けつけた自治体・大学・研究機関・ボランティアの方々の支援もいただきながら速やかに修復作業が進められ、観光地としての異人館は復興を遂げた。
北野は年々姿を変えている。おしゃれなブティック・レストラン・カフェ・土産物屋は変わらないが、最近、異人館やレストランでの結婚式・披露宴が観光とセットになって人気を呼び、遠方からのカップルも多い。休日、界隈は結婚式で華やかになる。
北野界隈のもうひとつの楽しみが、異国料理の食べ歩き。神戸には三十ヵ国以上もの異国料理店があるが、中でもこの界隈には中国、フランス、イタリア、スイス、インドなどの各国料理の店が多く、開港以来この地に住まった外国人のために外国人シェフが広めたという伝統の味が楽しめる。
さらに秋にはジャズストリートの聞き歩きが楽しめる。毎年十月、内外のジャズ・メンがつどい、街中にジャズの音色が響く。遠くからジャズファンがつめかけ、まちは賑わう。
このように北野の異人館街は異国情緒豊かな雰囲気が港町神戸のイメージとよく合い、神戸を代表する観光地となっている。